Tea room
Shamrock Cottage
高原の森の奥。
静かな時間の流れを愉しむ
あなたのための、
小さな小さな、隠れ家です。
朝の時間 06:30-11:00
午後の時間 13:00-18:00
(※11時~13時はお休みです。)
営業日はSNSでのご案内をご参照ください。
ビーチクリーン






納期が迫る仕事がある。
けれども急遽、また能登へと行くことを決めました。
2年前の3月に初めてのボランティア活動に輪島を訪れてから、お世話になってきたボランティア団体さんの締めくくりとなる活動が行われるからと誘われたためです。
1カ月前からお声がけいただいておりましたが、ぎりぎりにならないと予定が見えないとお伝えしていました。
「忙しくて無理だよな。でも行きたいよな。」
そんな葛藤の日々。
気持ちは8割ほど「行けない」に傾いて今いましたが、前日になって「やっぱり後悔したくない、行こう!」と決意しました。
今回はこれまでとは違い、堤防から眺めていたテトラポットの海側まで移動して作業を行いました。
岩や堤防の2/3よりしたが白くなっているその姿。
以前にも書きましたが白くなっている部分は、震災前までは海の中だった場所です。
間近でその高さを見た時、現地の方々がどれほどの教具を感じたのが、想像せずにはいられませんでした。
「地球は生きているから、海底は1年に1mmずつ隆起する。
でも今回の地震では、ほんの数分の間に、4000年分の変化が起きた。」
現地の方が最大4m隆起した海岸線を眺めながらそう話してくださいました。
これだけ海が引けば、津波の大きさも想像していたことでしょう。
それでも「砂浜の海岸になった」と前向きに語るその強さに、胸を打たれました。
今自分が歩いている場所がかつては海の中だった。
貝が張り付いたまま残る岩と、美しい砂浜の波うち際を見ながらの作業。
その光景は忘れられないものになりました。
今回の活動はビーチクリーン。
倒壊した建物の解体でも、炊き出しでもなく、海辺のゴミ拾いです。
震災後の3月、初めて被災地でのボランティア活動に参加する為に雪の道を能登へと向かう私たちは、不安の最中にありました。
勝手を知らない、右も左もわからない、そんな初めてのボランティア活動。
「自分たちなんかで、役に立てるんだろうか?」
「足手まといにならないだろうか?」
押し潰されそうな気持ちで、傾いた電柱の間を、波打った路面を走り、能登の海沿いの道へと出ました。
その時に目にした、波に打ち寄せられた膨大な量のゴミ。
震災直後は、もっともっと酷かった。
『このゴミをたった一つ拾って持ち帰るだけでも、ボランティアに来た意味はゼロじゃないね!』
そう夫婦で不安な自分達を鼓舞し合いました。
非力な自分たちにも、やれることが、やるべきことがあるのだと、背中を叩かれるような衝撃をくれたのが、その海辺のゴミの景色だったのです。
その後、何度も能登へと通わせていただき、解体や炊き出しなど色んな作業をさせていただいたけれど、私たちにとっての一つの締め括りとして、初めてボランティアに訪れた時の気持ちを思い出す海辺のゴミ拾いに汗を流せることは、とても感慨深いものがありました。
大学生達と一緒に活動。
どんどんゴミが集まります。
土に還らないゴミが沢山。
若者に張り合って、つい頑張り過ぎてしまった。
「自分たちなんかで、役に立てるんだろうか?」
「足手まといにならないだろうか?」
ボランティアの現場でもそうだったし、
そうでなくても、日々の営みの中ですらも、
自分の存在があまりにか細く軽く、消え入りそうになる時もある。
社会にとって、大きな貢献にもならぬちっぽけなカフェを風前の灯火でひっそりと営んで、
素敵なカフェは他にいくらでもある。
「自分たちなんかで、役に立てるんだろうか?」
「自分たちが、いる意味なんてあるだろうか?」
そんな不安に、足元のありふれた幸せが見えなくなる時だってある。
そんな時に、波打ち際を思い出す。
ゴミを一つ拾うだけでも、
私たちに存在意義はあるのだと。
自分のことをゴミのように思ってしまう時もあるけれど、ゴミを拾えるゴミなんて存在しないでしょう?
大学生達をそそのかして、漂着物の旗を立てた。
不安になったら、ゴミを拾う。
ちっぽけな存在意義を、アイデンティティを、
拾って、旗のように突き立てる。
今回のビーチクリーン作業には、5〜60人もの大学生達も参加していました。
大型バスで乗り付け、過疎の集落が一気に活気付きます。
僕も、学生に混じって作業の説明を聞きます。
大学生にも、色んな子がいます。
私たちのような見ず知らずの年長者にも、積極的に話しかけてくれる子。
足場の悪い岩場や砂地を、張り切ってずっと走り回っては現場を取り仕切ってくれる子。
他の学生の誰とも交わらず、離れて独り静かにゴミを拾い続ける子。
ひたすら大きなゴミを砂から掘り出すことに夢中になっている子。
誰もが嫌がるような、汚れた水辺のゴミを無心に拾い続ける子。
重いゴミに苦戦している子のところへ、誰よりも早く駆け寄る優しい子。
個性が眩しく、尊く感じる。
頑張り屋さんの、肩を叩きたくなる。
若いというだけで、なんて眩しくて美しくて、尊いものだろうか。
能登の海の景色は、今日も当然のように美しいけれど、負けぬほどに美しいものを目の当たりにしました。
集合して記念撮影。「能登、最高!」との掛け声が微笑ましい。
作業が終わり、大学生達は大型バスに向かい、帰り支度です。
ありがとう。ありがとう。1人ずつに声をかけたいくらい。
皆で集合写真を撮り、ボランティア団体の主催者さんと、一人一人ハイタッチをしてバスに乗り込んで行く。
その合間を縫って、私たちも主催者さんに言葉短く挨拶だけ交わし、大型バスよりも先に現地を離れ、山の中への長い帰路に着きました。
たった一日、大学生達と共にゴミ拾いをしただけなのに、無性に名残惜しく、寂しくて、人恋しく思われました。
2年間通ったこの地でのボランティア活動が一旦の締め括りということで、その感慨からでしょうか?
依然として倒壊した家屋とブルーシートも多く、一方で急激に空き地の増えた夕焼けの集落を眺めたからでしょうか?
自分達が失ってしまった、若さへの寂寥でしょうか?
無限に湧き出る未来と可能性への憧憬でしょうか?
素直さ、純粋さ、無垢な魂、その眩しさに脳を焼かれたからでしょうか?
ずっと1人で誰とも話さずにいた子が、私のゴミを一緒に持ってくれ、体力には自信のあること、バスケをやっていたこと、ポジションはセンターであることを小さく話してくれたからでしょうか?
その子がバスへの行列の中でも、1人だったからでしょうか?
得体の知れない、名伏せし難い、ドクドクと溢れるさびしさと切なさを抱えて、
元より目一杯にさびしさの詰め込まれた、アルプスの麓の高原の森の、ちっぽけで静かなカフェへと帰ります。
海にさようなら。
若さにさようなら。
フミノさんは、「今日ゴミ拾いに参加した子達は、将来ずっと、ペットボトルをポイ捨てしない人になるね」と目を細めます。
僕は将来ずっと、若さとその美しさへの賞賛を、捨てない人になれると思います。
約320kmの帰路の中では、ハタチの頃に聴いていた歌を振り撒いて走りました。
ありがとう。











